『原っぱと遊園地』マニュアル化できないものは不要なのか?

 

『原っぱと遊園地』タイトルにつけたこれは、本の題名です。

以前に、知人から教えてもらって読んだ本で、建築家の方が書かれています。

 

 私の職業とは全く関係ない分野なのですが、そこで書かれていることは分野が違えど共感できることばかりで、自分の仕事の世界でも暮らしの中でも同じようなことが起きているなぁと思い印象に残った本でした。

 

先日、読み返す機会があったので、今日はちょっと思うことを書いてみたいと思います。

というか、本のレビューではなくなってしまって、自分の想いを書き綴ってしまいました。

 

原っぱと遊園地

 

 

 

遊園地は、「遊び」が整備されていて遊び方が決まっている世界。

一方の原っぱは、何もなく遊びを見つけていく世界。何が起こるか、その日そこに行ってみないとわからない場所、自分たちで遊び、自分たちで遊びを発見していく場所。

遊園地的な遊びが悪いと思っているわけではありません。

けれど、「遊び」が全て遊園地的なものになってしまったら、私たちの心は何だか寂しいものになってしまう気がします。

遊びだけではなく、世の中の動きがどんどん原っぱをなくしていく傾向にあるような気がするのは私だけでしょうか。

 

私は、医療関係の仕事をしています。医療の分野でも、職務内容は細分化され、機能的で効果がはっきりと分かるものを重視し、マニュアル化できないものは切り捨てられる傾向にあります。

けれど、実際に現場にいて思うことは、マニュアル化された行為を支えているのは、マニュアル化できない人と人のつながりだったり、その場所のもつ雰囲気や歴史だったりが大きく影響していて、それらはマニュアル化されるものと同じかそれ以上に大切だということ。

 

患者さんと一緒に過ごす中で、患者さんたちの日々のほんの僅かな言動の変化に気づきたい、そして、それを大切にしたい。

決して、効率的でも機能的でもなく、何をしてるの?と周囲からみられ評価されることはないかもしれない毎日の小さな出来事に注目し続けたい。

「言葉」は話された言葉そのものだけでなく、その「言葉」を言うに至った背景やその「言葉」が生まれてきたことそのものに大切にしたいと私は思っています。

 

子どもと原っぱ

4歳になる息子が、カブトムシを探しに雑木林に行きたいと、この夏言いました。

保育園の行き帰り、木の生えている場所を指しては「これは雑木林?」と聴いてくる息子。

そう言えば、雑木林ってどんなところなんだろう。自宅の近くにあるのかな?

きれいに整備された公園はたくさん近くにあるのに。

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何もない場所。それは、たくさんの可能性が宿っている場所。

それは、豊かな「余白」が残されている場所。

 

 自分たちの生活の中に、どれだけ未知の可能性を残した余白があるのだろう。

目に見えること、わかりやすいこと、機能的なこと、有益なこと。

目に見えない世界、わかりにくい混沌、未分化なもの、一見意味のないもの。

きっと後者が、前者を支えている。

そして、後者がいつも前者より先のものを見ている。そんな気がするのは私だけでしょうか。

 

今日は何だかとりとめなく書いてしまいました。

読んでくださってありがとうございます。

 

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